『クラス対抗30人31脚を即刻廃止すべきである6つの理由というエントリを読んで

クラス対抗30人31脚を即刻廃止すべきである6つの理由というエントリを読んでみた。


考え方は、個人個人でかなり違うだろうし、一個人の主張としてはあっても良いし、またあるべきだと思う。

それに、私個人は30人31脚って面白いとか思わないし、やりたきゃやればいいし、やりたくなければやらなきゃいいだけの事。


ただし、クラスの大半が参加しているイベントに、参加していないという事は、将来的に考えたら、思い出を共有出来ないという残念な結果を招くだろうと思うと、みんなが参加するなら、そのときは嫌だと思っても参加しておくべきだと思うね。

歳をとってから学生時代をふり返ると、楽しかった思い出よりも、ともに苦労や苦痛を共有した仲間との思い出の方が、はるかに良い印象として残っている。

若いうちは理解出来ないかも知れないけど、30過ぎればよく判るようになると思う。

もちろん、私だって若いときはそんな事考えなかったしね。


ただ、多少気になったところだけ触れておきたいと思ったので、コメントしようかと思ったけど、長くなりそうなのでエントリしてトラックバックする事にしました。


1. 「クラス全員が参加に同意する」ということが、いかに尋常でない状況であるかを認識して下さい

前述のとおり、30人31脚は、出場に際し、クラス全員の同意を必要とします。しかしながら、この「同意書」をもって、「すべての生徒が自発的に30人31脚への出場を望んだ」などと解釈することは全くできません。「本当はやりたくないけれど、(様々な事情から)仕方なく同意せざるを得なかった」といった児童も少なくないと考えられます。
http://d.hatena.ne.jp/terracao/20091209/1260368742

「クラス全員が積極的に参加する」というのと、「自分は嫌だけど多くのクラスメートが参加したがっているので参加に同意する。」というのは同じ意味ではないだろう。

「クラス全員が積極的に参加する」と意思表示したとすれば、それは明らかに異常なんだけど、「自分は嫌だけど多くのクラスメートが参加したがっているので参加に同意する。」というのであれば、よくある事ではないだろうか。

私は先日30数年前の通知表を見つけ、「協調性に欠ける」と書かれた担任のコメント欄をみて、一人で失笑してしまった訳だが、そんな私でも「みんながやりたいと言うなら参加しても良いよ。」と言っていたし、それくらいの社会性は小学生でも身につけていると思います。

「クラス全員が参加に同意する」という事を、余りにも狭義に考えすぎじゃないかと思うんですよね。


2. 児童の身体的発達にとって有効ではありません

「速い児童は遅い児童にあわせ、遅い児童は速い児童にあわせる」ことを訓練する30人31脚には、個々の能力に応じた身体発達的な視点はありません。つまり、身体的発達という観点からいえば、30人31脚に教育的効果はありません。従来の体育教育で十分なのです。

この2に関しては、その通りだと思うけど、30人31脚って教育の一環としてやってるのだろうか。

こんなのタダのイベントの一つだろうと、私は思うんですよね。

もし教育の一環として文科省教育委員会が推薦しているのであれば、「こんなモンに教育的効果なんか期待出来ません。」と主張するべきでしょうけど、タダの楽しいイベントなんじゃないの?



楽しいイベントをより楽しくするために目標設定しているだけだと思うんだ。

なんの目的もなく、目標も無く、ただ行事として消化するだけなら、楽しくないやん。


目的や目標を設定する事で、達成感や満足感、敗北感や劣等感などの、様々な感情が一際強く印象に残るモンだろう。そういう様々な感情を経験する事が教育だとは思わないが、「成長過程において重要な要素の一つなんじゃないのかな。」と思う。


3. 児童の身体発達にとって、害悪ですらあります

これは、とくに保護者の方によく理解して頂きたいことです。30人31脚は、主に、学級担任の指導によって行われていますが、学級担任はあくまで小学校教育の専門家であって、スポーツトレーニングの専門家ではありません。科学的に間違った「しごき」が、「練習」の名の下で行われることも容易に想像できます。そうした非科学的な「しごき」が、まだ発達途上の児童に与える悪影響は、はかりしれません。
〜中略〜
 30人31脚はまだ新しい「競技」ゆえ、教育学的蓄積がほとんどありませんし、スポーツの専門家から、確たる助言もありません。身体的にかなり負担を強いる活動であるにもかかわらず、その危険性はきちんと把握されていないのが現状なのです。
 児童の身体発達を真剣に考えるのであれば、より安全な教育プログラム(=従来の体育教育)を選択することが、教育者に必要なことではないでしょうか。

言わんとしておられる事はよく判るのだが、スポーツ医学やトレーニングについては、現在の形が完成形ではないし、将来的な事を考えれば、過去のトレーニング法が見直される可能性は高い。

最新情報という事は重要視されるべきだけど、過去のトレーニング法を否定する根拠にはならないと思います。

また、新しい競技ゆえに教育学的蓄積が不足しており、専門家のアドバイスも期待できないからやらないというのであれば、今後あたらしい競技は誕生しない事になるし、エキスパートも生まれない。

安全が確認された事以外を全て否定するのであれば、児童の自由や好奇心を阻害し、選択肢を限りなく少なくする事になる。それはもう洗脳となんら変わらない独善的な考えだと思う。


中略としてしまったが、過度の競争意識も時には必要じゃないかな。ケースバイケースで柔軟に対応するべきだと思います。


4. 普通の徒競走にくらべ、きわめて大きな危険性があります

容易に想像がつくとおり、「転倒」が非常に多く起こります。さらに、両サイドから引っ張られているため、一人で走っていた時よりも大きな重力を、転倒の衝撃時に受けることになります。
 また、「足並みをそろえる」という目的から、かけ声を出しながらはしるチームもありますが(たとえば、「いち、に!いち、に!」)、舌を噛むなど、口の中を傷つける危険性が増します。

転倒の危険性が徒競走より高い場合もあるでしょうね。片側だけが転倒する場合は、衝撃は相殺されるけど、両隣が同時にコケル可能性もあるしね。

また、掛け声に関しては、確かに舌を噛む可能性が高くなるとおもう。

しかし、全くリスクの無い競技などありえないし、危険はこの30人31脚に限った話では無い。そして、危険や痛い思いをする事で学び、成長するという事実も否定できないと思います。


5. チームワークも育みません

 軍隊・自衛隊の行進を考えればすぐわかります。彼らの足並みは非常にそろっていますが、それはそのように訓練されているためであり、心から互いを思いやったり、互いの個性を尊重しているからそうなったわけではありません(じじつ、互いに「顔見知り」程度の隊員もいるでしょう)。
そもそも「チームワーク」が、身体的な次元のみに限定されていることが問題です。チームワークそして協調性とは、たとえば「勉強ができる人はできない人をサポートする」「互いの意見や経験を尊重する」「困っている友達がいれば助けあう」ことも含む、幅広い考え方です。「クラスの一致団結」は、必ずしも、身体活動で達成されなくてもよいのです。そうした「一致団結」は、従来の小学校教育が、ことあるごとに行ってきたことです。にもかかわらず、他でもなく30人31脚を選ばなければならない教育的根拠はあるのでしょうか。

だから、教育の一環としてやってるんじゃないだろ?って話なんですけどね。

ちなみに、なぜ軍隊や自衛隊の行進を引き合いに出したのか判りませんが、知らない事は迂闊に例に挙げるべきじゃないでしょうね。

私は地元の消防団に所属していますが、小隊訓練など行進のときに足並みが揃うのは、間違いなくチームワークです。ご指摘のとおり顔も知らない隊員とでも、手足をそろえて行進しますよ。理由は簡単です。同じ仲間として、全く知らない者同士でも足並みを揃えられるように訓練しますし、行進で言えば大きく手を振る事で、横を向かずとも隣に合わせられるのです。隣の人が前方に出した手を見て、それにあわせるんです。

チームワークと仲良しグループを混同して考えておられるんじゃないかと思います。

一致団結するために、お互いが仲良しでないといけないという事は無いです。逆に、同じ目的を持つ者同士が目的のために一致団結する事こそがチームワークなんじゃないでしょうか。


6. むしろ、チームワークを損ないます

小学校の学級は、まったくの偶然の結果、集まったメンバーによって構成されています。同一目的を持つ必然性のないメンバー全員に、一律参加、同一行動を強制するような活動には、人間関係を害する構造的な原因があるのです。
 もちろんこうした「構造的問題」を含むカリキュラムは、小学校教育の至るところで見られます。たとえば、合唱コンクールや一斉給食、集団下校、体育祭などのダンスなどをあげることができます。しかし、30人31脚は、こうした「普通の集団行動」よりも、いっそう深刻な問題点を持っています。それは、ひとりの失敗により、全体が大打撃を受けるという点です。その他の集団活動では、合唱にせよ、ダンスにせよ、一人の失敗が全体に与えるダメージは大したものではありません。一人や二人くらいひどい音痴がいたとしても、全体がしっかりしていれば、合唱がまったく崩壊してしまうことはないのです。むしろ、集団全体が少数の音痴をカバーすることすら可能です。つまり、「普通の集団行動」は、その程度の「個人差」を許容できるのです。しかし、30人31脚では、こうはいきません。一人の失敗が集団全体の失敗を意味します。そして、一人の失敗を集団はカバーできません。失敗をひたすら回避することが協調性でしょうか。一人の失敗すらカバーできない競技でチームワークが育まれるのでしょうか。

ご本人も指摘しておられるように、他のイベントだって同じじゃないですか。それを、危険性を強調する事で30人31脚だけを排除しようという考え方が、独りよがりな独善的思考なんですよね。

他人をカバーする事も重要なチームワークですが、チームに迷惑がかからないように努めるのもチームワークです。

カバーする事のみに焦点を当てた論調は、まったく賛同出来ないですね。

所詮は日教組脳と言う事だろうか?

結論

論調から察するに20代か30代前半の若い教師だという印象を受けました。

間違いだったら申し訳ないんだけど・・・

ただ、ドップリ日教組に洗脳されている感じがなかったので、まだ若いんだろうなと思ったんですよね。

私は、日教組などという偏向した考えの人たちと議論する気は無い。

理由は簡単。彼らは自分たちの主張が正しいと信じ込んでいるから、他人の意見に対して聞く耳を持っていない。

そんな連中と不毛な議論をするほど私はお人好しではないのだ。


ただ、まだ若いであろう引用元のブログ主さんには、柔軟な思考が散見されたので、まだ洗脳が済んでいないか、あるいは日教組の洗脳を拒んでいる人なんだろうなと思ったんです。

洗脳済みの教師は、30人31脚に対しても疑問を抱かない傾向が強いしね。

そこで、一つ提案があるんだけど、30人31脚の是非ではなく、「遣りたいと欲している生徒さんもいて、即刻廃止なんかしたら、やりたかった生徒さんの権利を阻害し、可能性の芽を摘んでしまう事になりかねない」という事についても考えてみて欲しいです。

出来れば、私の言及については考慮せずに、純粋に女教師さんの考えのみで「遣りたい生徒さんの気持ちや権利」について考えて欲しいと思います。

遣りたくない生徒さんの気持ちは、本当に良く考えてらっしゃるので、そちらの方は十分評価していいと思います。


だからこそ今度は、逆の視点からも熟考していただければ、嬉しいです。


こうして、ブログにエントリして、自分の考えを主張する事って大事だと思うんですよね。

そこで、たとえネガティブなコメントに晒されることになったとしても、今後の生活に大いに役立つと思うんですよ。


私は、ドップリとマジョリティーですが、大勢の中にいてマイノリティーに共感する姿勢を続けたいと思っています。


学校の教員って、凄く狭い社会で生きているんですよね。

この自由な社会にあって、教育現場という非常に狭い社会に閉じ込められた人たちです。その事を同情しているし、そんな環境の中で生きているから、他の人たちとのコミュニケーション不足なのも判ります。

ちなみに、私の知人の教員なんか「卵は価格の優等生だ!40年前から今まで1玉10円という価格を変えていない」って主張する世間知らずな校長先生もいたりするんですよね。

卵は相場が安定した価格の優等生ではありますが、1玉10円なんて広告の目玉商品でも最近見かけなくなったんですけどね。

余談はどうでも良いとして、遣りたいと思っている生徒さんの事も、ちょっとだけ視野を広げて考えてあげて欲しいです。