強いものに謙り、弱いものにトドメをさす社会
タケちゃんマン
1981年からスタートした人気番組「オレたちひょうきん族」を知っている人には、お馴染みのヒーローが「タケちゃんマン」です。
ビートたけしさんが扮するタケちゃんマンが、明石家さんまさん扮するブラックデビルやアミダばばあ、ナンデスカマン、妖怪人間しっとるケ、島田紳助さん扮するコーモリ星人らと仲良く戦うコメディーです。
タケちゃんマンの歌の歌詞
タケちゃんマンの歌の歌詞に、「強きを助け 弱きを憎む」という部分があるんですが、タケちゃんマンの性格は正にその通りだった。
THE TAKECHANマン(タケちゃんマンの歌) ひょうきんストリートBAND 歌詞情報 - goo 音楽最近の風潮
なんで今頃になって、30年も昔の事を書くのかというと、最近の風潮がまさに「強きを助け 弱きを憎む」ような風潮だと思ったからです。
メディアも世論も、強いもの(勢いのある者)に従い、弱いもの(勢いを失った者や、失敗した者)を徹底的に叩きのめす方向を向いている。
日本人の正義感とは「弱きを助け強きを挫く」ものだと信じて生きてきたが、時代が変化したのだろう。
それ以前に、正義なのか悪なのかという判断は必要なのだが、日本人とは基本的に判官びいきな側面を持っていて、「弱きを助け強きを挫く」という気質が育ったのだと思う。
善と悪 弱者と強者
もともと、善悪の判断は、立場や視点で大きく変わるものである。
また、時代背景によっても大きく変化するものである。
長いスパンで考えれば、時代によって善悪が逆転する事も多い。
善と悪の違いは、不明確な場合が多いのである。
強いと弱いの場合、相対的なものだから、時代に左右される事は無い。
常に強いものと弱き者は明確に分けられる。
だから、日本人の正義感は「善を助け、悪を挫く」ではなく、「弱きを助け、強きを挫く」になったのかも知れない。
時代背景に左右されない基準だから、何時の時代も明確な判断基準になる。
ブログ炎上や言葉狩りが社会問題化
最近、ブログ炎上や言葉狩りが社会問題化する事が多い。
例えばタレントの誰かがテレビ番組等で発言した事に対し、批判するコメントを書き込む人がいる。
そこまでは、発言に対する抗議なので問題では無いが、その後で匿名の書き込みが行われる。
匿名性をいい事に、誹謗中傷コメントが爆発的に増加するのである。
発言に対する批判や抗議なら問題ないが、ブスだのなんだのと、本質と関係ない誹謗中傷が行われるのである。
この場合、匿名で誹謗中傷を繰り返す者は、自分達は一切攻撃対象にならないので、やりたい放題である。
しかしブログの管理者は、ハンドルネームであれ、実名であれ、その膨大な量のコメントの対応に追われるのである。
そして、管理者がコメント拒否などしようものなら、その事が攻撃対象になり収集不可能に陥ってしまう。
誹謗中傷のコメントを書き込む人は、ブログと言う媒体の匿名性を利用し、弱いものイジメを繰り返すのだ。
一部で、あまりにも酷い違法な書き込みをしたものは、IPアドレスから個人が特定され、逮捕されるという事もあるが、大半は見逃されてしまう。
「これでもか!」とばかりにトドメを刺そうという風潮
時々、管理する側を擁護するコメントを書き込む人がいるが、この事が逆に火に油を注ぐ事になる。
一度の失敗でも、再起不能になるまで集団で叩きのめす風潮は、客観的に見て「弱いものいじめ」にしか見えないのである。
まさに、「強きを助け、弱きを憎む」風潮だと言えるだろう。
タレントの場合、人気商売であるが故に、仕事にも影響する事が多い。
人気のあるベテランタレントなら、多少の誹謗中傷は、本人の人気が跳ね返すだろうが、若手のタレントならば潰されてしまうだろう。
失言や問題発言が要因なので、自業自得と言えなくもないが、弱っている人を「これでもか!」とばかりにトドメを刺そうという風潮には賛同出来ない。
「強きを助け、弱きを憎む」風潮の弊害
今のような風潮だと、一度の失敗が命とりになりかねないので、失敗や過失を隠そうとする者も現れ、発覚した途端に総攻撃を受ける事になる。
「強きを助け、弱きを憎む」風潮の弊害と言えるのではないだろうか。
タケちゃんマン体質
個人の行動について、誹謗中傷は止めなさいとは言えるが、個人個人で誹謗中傷の解釈が違うので、これを無くすのは困難だと思う。
しかし、メディアが煽るのは如何なモノかと思う。
失言したタレントの映像を、繰り返し報道する必要は無いように思うのだ。
元々メディアなんて、スポンサーの利害にあわせて報道の内容を編集するくせに、正義面している事が問題である。
また、人気タレントが所属する事務所には、コメツキバッタのように謙り、持ち上げるくせに、なにか問題が生じたら、ここぞとばかりに叩きのめす。
全くタケちゃんマン体質だと呆れるのである。