葉隠 「武士道といふは死ぬ事と見付けたり」

葉隠

「武士道といふは死ぬ事と見付けたり」という言葉が余りにも有名で、葉隠を知らない人でも、この言葉は知っていると思います。

この言葉だけで葉隠を理解した気持ちになる慌て者のおかげで、江戸時代には禁書扱いにされたり、明治から昭和期には出兵する若者のバイブルのように扱われた。

また三島由紀夫が愛した書物で、三島は「葉隠入門」という本を書いている。

江戸時代の禁書であり、軍国主義時代の若者のバイブルであり、民兵組織「楯の会」を作り右翼活動に傾倒し、自衛隊にクーデターを促し、失敗して割腹自殺した三島由紀夫が愛した書物と言う事で、いささか物騒な印象を持っている人が多いのも事実です。



しかし「葉隠」は、正式には「葉隠聞書」というように、佐賀藩の武士だった山本常朝の談話を、田代陣基という人がまとめた口述書のような物です。

山本常朝は、佐賀藩第二代藩主・鍋島光茂に仕えた武士で、藩主・光茂が亡くなると、当時42歳だった山本常朝は、古いしきたりを重んじ殉死を願うが、当時佐賀藩では殉死を禁止していた為に常朝は殉死出来なかった。

その後、常朝は剃髪して出家、山奥で隠棲する事になるのですが、そこに佐賀藩の若い武士・田代陣基が訪れて、二人の語らいが始まります。

その語らいの内容をまとめた口述書が葉隠です。

よって葉隠の内容は、人生訓のような内容であり、鍋島論語と呼ばれる事もあったようです。



葉隠は現在でも通用する人生訓

葉隠に学ぶところは非常に多く、私は時々参考にします。

有名な「武士道といふは死ぬ事と見付けたり」という言葉も、前後の文章を読めば、死ぬことを賞賛する言葉では無い事に気がつきます。



戦などで、生きるか死ぬかの場面に至った時には、いち早く死ぬほうを選ぶ事だ、死を選ぶことにより覚悟が定まり真っすぐに進む事が出来る。生きるか死ぬかの場面では、思い通りに事が進まないものだから、敢えて死を選ぶ事で覚悟を決めようという意味です。常朝は「覚悟が決まれば、良い仕事が出来るものだ」と言っているんですね。



そういえば、藤堂高虎遺訓のなかにも「藩士たるものは、朝起きたらその日が死番と心得るべし。」と言う言葉がある。

武士の心構えとして、常に死を意識する事が迷いを断ち、結果的に奏功するものだという意味も含まれているのかも知れませんね。



島津義弘は、関が原の合戦で西軍が敗れると、戦場に取り残されてしまう。

島津軍1千は、徳川家康の本陣を中央突破すると言う奇策に出るのだが、その時に島津義弘は「老武士のため伊吹山の大山は越え難し、たとえ討たれるといえども、敵に向って死すべしと思う。」と言って、家康本陣に突入したのです。

その結果、島津義弘は家康の目の前を横切ってしまう。家康軍は一瞬唖然として島津軍を見送ってしまうが、本多忠勝らはスグに状況を飲み込み追撃を開始するのだが、島津義弘は手勢を80人程度に減らしながらも窮地を脱するのです。

死中に活というべき戦略ですが、死を覚悟した事で生を得たと言えるでしょう。



戦国時代は、そういう世の中だったのかも知れませんね。



佐賀藩の殉死禁止令

佐賀藩では、藩主・勝茂が亡くなった時に、28名の家臣が追腹(殉死)したと伝えられている。二代藩主・光茂は、この家臣たちの追腹(殉死)を嫌い、殉死を禁止したといわれています。

鍋島光茂は、諸藩に先駆けて幕府の殉死禁止令より早く殉死を禁止しているんですね。

山本常朝は、主君・光茂が決めた追腹禁止令に背く訳にはいかなかったのでしょう。