体罰について考えてみた

大阪の高校生が自殺した事件ですが、部活動の先生の体罰が自殺の原因だとして「体罰」について、様々な有名・無名の論客が「体罰は悪!」と大騒ぎしてます。

彼方此方の論客たちをことごとく粉砕して橋下無双と言われ、現在向うところ敵無しの橋下大阪市長がメディアで謝罪するくらいの大騒ぎです。

私も体罰には賛成しかねるのですが、だからといって「体罰反対!」とか「体罰は悪!」などと体罰を完全否定する訳でもないんですよね。

私は中学時代に相当厳しい先生に指導を受けたので、毎日毎日殴られていました。一回も殴られない日なんて、一年に数日でしたよ。おかげでソコソコ上手になれたので、殴られた事を恨んでもいないし、むしろ感謝しています。

まあ〜体罰といっても「どこまでが指導で、どこからが体罰なのか?」って線引きが難しいんですが、個人的には体罰には賛同出来ないが、真っ向から否定するのもどうなんだろう?と思っています。

私の場合は、ソコソコ上手になれたと実感しているので、殴られた事に感謝している訳ですが、散々ぶん殴られた挙句に全く上達しなかったのなら、そりゃ〜トコトン恨んでいたでしょう。結局、多少厳しく殴られたとしても、何かしら得るものがあったら指導として認識するが、得るものが無かったら体罰として認識しちゃうんだろうな!と思うんですよね。

最終的に、殴られた人に得るものがあるか?無いか?って事が判断基準だとすると、殴る側には決定権が無い訳ですから、「やっぱ人を殴っちゃいけないな!」って結論に至る訳ですが、それだと殴られた事を発奮材料にして上達する人もいなくなっちゃうし、判断が付きかねるんだよな〜。

まっ!今回の大阪の事件は何十発も殴った!という情報もあるようですし、指導というよりリンチだったと考えられる訳です。もしそうなら体罰の善悪を問うべき事件では無いような気がします。

しかしなあ〜自殺した生徒は、高校でキャプテンを務めるくらいのスポーツ選手だった訳ですし、自殺を考える前に「逆襲して先生をぶん殴ってやろうか?」って考えて欲しかったなあ。暴力を容認する訳じゃ無いですが、死を選ぶくらいなら生きるために先生をぶん殴るという選択肢があっても良かったと思います。

極論になりますが、生きるって事はそういう事だと思います。

人間(人間に限らず)なんて、何かを食わなきゃ生きていけない。食い物なんて元々は生きてる動物だったり、植物だったりする訳です。私は「ベジタリアンだから殺生はしていない。」的な考え方は認めていません。植物だって生きているんだからベジタリアンだって、他の命を奪って生き永らえていると考えるべきだと思っています。


結局、自分以外の命を食べているんですよね。私も貴方も!!



他の生き物の命を奪って生きている人間が、自ら命を絶つことは本来許される事じゃ無いんです。そして生き残る為に必要ならば、暴力だって容認せざるを得ない状況だってあるはずです。

自殺した生徒さんが生き返る事はないですが、現在死ぬほど悩んでいる人がいるならば、自殺なんか考える前に、悩みの種をぶん殴る事を考えて欲しい。

誰かの暴力に悩んでいるなら、死ぬ前にその誰かをぶん殴ってやれよ!借金苦で死ぬくらいなら、その借金を踏み倒してでも生き抜いて欲しい(幸いにも自己破産という手段がある訳だし、借金は自殺の理由にはならないといえよう)。

他人に迷惑を掛けたから、お詫びに死のうと考える前に、「自殺なんかしちゃったら、更に迷惑を掛けてしまう」って事に気付いて欲しい。

将来に不安があるから自殺しようって考える前に、「将来に対する不安なんか漠然としたモンで、気の持ちようでどうにでもなる」って事に気付いて欲しいし、将来の不安なんて余裕がある証拠であり、本当に深刻なのは現在進行形で困窮してる人だ!って事に気付いて欲しい。

そしてどんな不安も困窮も、後になって振り返れば、取るに足りない些細な問題だったと感じるものだと気付いて欲しい。



自殺なんか考えずに、もっともっと貪欲に、そしてド厚かましく生き抜く事を考えて欲しいと思う。他人に迷惑がられても気にせず、どんどん迷惑を掛けたらいい。そもそも迷惑を掛けられる人というのは、迷惑を掛ける人に対して何かしら魅力を感じているのである。なんの魅力も感じないような人間にはなんの接点も持たないし、結果として迷惑を掛けられる事も無いのである。なにかしら迷惑を被るという事は、迷惑を掛ける人に何かしらの魅力を感じている。だから自殺なんかされた日にゃ〜「迷惑を掛けられるは、自殺されるわ」で踏んだり蹴ったりの状況になっちゃうんですよね。



だから、絶対に自殺なんかしちゃダメだ!って事を強く感じる訳です。