お魚目がかわいそうで、食べられない子ども達
食卓に上がったお魚の目がかわいそうで、食べられない子どもが増えているらしい。
愛媛新聞ONLINE 9月24日付の社説
http://www.ehime-np.co.jp/rensai/shasetsu/ren017200909242428.html
かわいそうで食べられない
私個人としては、子ども達の「お魚の目がかわいそうで、食べられない。」という感じ方は、子どもらしくて嫌いじゃない。
なんとなく微笑ましく思える話だ。
幼少期には、少なからず同じような経験をしたり、同じような感覚を持つことは多いんじゃないかと思う。
「お魚の目がかわいそうで食べられない」と思う感受性は、成長過程において大切な事だと思います。
吊るされた鶏
私が保育園に通っていた頃の記憶なんですが、近所のスーパーの肉屋さんで、絞めた鶏を見たことがある。
絞められて、羽をむしりとられた鶏が数羽、吊り下げられていた。鳥肌のブツブツが印象的だった。
私はその後暫くの期間、鶏肉が食べられなかった。
特に鳥肌のブツブツを見ると過剰に反応していたように記憶している。
今は平気で食べているのですが、何故食べられるようになったのかは記憶していない。
ただ、鳥肌のブツブツが嫌で、一時期食べる事が出来なかっただけの話だ。
同じような経験をした人は少なくないんじゃないかと思う。
人類
我々人類は、地球上の食物連鎖の頂点にいる。
稀に猛獣に食べられちゃう人もいるし、チベットなどでは鳥葬という文化もありますが、基本的には人間が他の動物に食べられることは無い。
人類は食物連鎖の頂点にいる。
我々人類は、他の生物の命を食べる事で生き永らえている生物である。
魚だって鳥だって、牛や豚だって生きているし、植物だって生きている
その命を奪う事で我々は生きているのだ。
食物連鎖
地球上の生態系は、食物連鎖によって成り立っている。
弱者を強者が食することは、自然界のバランスを保つという側面がある。
もし肉食獣が、草食動物を食べなくなったらどうなるだろう。
天敵がいなくなった草食動物は、一時的に繁栄し個体数は急増するだろう。
そして増えすぎた草食動物が、地球上の植物を食べつくし、最終的には食べ物を食べ尽くした草食動物は餓死する。
食べ物が無くなるんだから、壊滅状態になるだろう。
食育
幼少期には、食物連鎖や自然界の弱肉強食の掟など、理解していないのが当然の話だし「かわいそうだから食べられない」と思う事の方が自然な感情だと思う。
また、一度や二度はそんな事を考えるべきだと思うのです。
命に対する意識を持つという事は大切な事だ。
少なくとも、何も感じる事なく食卓に並ぶ魚を食べるより、かわいそうで食べられないと言う経験を、数回経験するほうが、食に対する意識も高まると思う。
まずは疑問を感じ、経験をしながら人は成長するのではなかろうか。
自分達の栄養源は、生き物たちの命によって支えられている事を学ぶ良い機会だし、食育とはそういう事を学ぶ事なんじゃないかと思う。
感謝
いずれ食物連鎖や弱肉強食の掟を学び、命を頂く事の意味を知れば良いと思う。
生きるためには食べなきゃならないし、自分を支える栄養源は、全て生き物の命なんだと理解し、犠牲になった命に感謝すれば良いんじゃないかと思うんです。
こういうモンなんだと思い込ませるより、魚や牛、豚の命を奪っている事実を伝え、犠牲になった命に感謝する事を学ばせる事が大事だと思います。
食卓に上がったお魚の目がかわいそうで、食べられない子どもが増えているという。「これは恐ろしいことです」と、青木淳一横浜国立大学名誉教授は嘆く。
引用:愛媛新聞社ONLINE
青木教授の嘆きは理解出来ない事もないし、大学生が「お魚の目がかわいそうで、食べられない」なんて言っていたら、馬鹿馬鹿しいと思うし、変人扱いされるだろう。
しかし、幼少期には感受性を磨き、年齢とともに現実にあわせていけば良いと思います。
成長過程において、多くの矛盾や理不尽に遭遇しますが、一つ一つ解決したり、妥協したり、納得できなくても受け入れざるを得なかったりしながら成長するもんだ。
幼少期には「お魚がかわいそう」と思う気持ちも大切だと思うのです。
そこからスタートしないと、食べる事に対する感謝の念は育たないのではないだろうか。