在宅介護

私は、父の在宅介護をしているのだが、たった一人で介護するって本当に大変だと実感している。

とにかく歩行困難というのが、一番困っている。

トイレに行きたくても身体が思うように動かない。

だからオシメが必要になる。

身体が動かないから、一日中ベッドで寝たきり、起き上がろうとしない。

ますます足の筋力は衰え、ドンドン歩けなくなる。

悪循環を繰り返し、ますます身体が不自由になるのだ。

病院に入院している時は、強制的にリハビリを行うので、それなりに歩けていたのだが、退院するとベッドに寝たきりになる為、すぐに足の筋力が衰えるようだ。

本人の自覚の問題ではあるが、古い家なので段差が多く、歩行困難な人には暮らし難い家であろう。

スロープを付けようにも、そのスペースさえないのである。



介護認定

要介護認定を受けようと申請し、面会にも来てもらったのだが、父が強がって「自力で歩けるし、トイレにも行ける」と言い張った為、要支援2の認定しかもらえなかった。

それでは、受けられるサービスが限定される。

2月までの認定だったので、2月にはもう一度面接を受ける予定なのだが、要介護に認定してもらえればいいが、また無意味な強がりが始まるんだろうと思う。

父の言い分は、私がちゃんと手伝ってくれれば、自力で出来るという論法で、所詮自力とは言えないものだが、面接する人は介護する家族がいるなら、極力家族が介護するべきだというスタンスのようである。

しかし、家族が二人の場合、介護のために家を離れられず、仕事も限定されるし、通院のたびに休む事が前提になるのでなかなか就職先が見つからないという状況になる。



医療の発達

医療が発達して、人は長生きするようになったが、それが人々の幸せに繋がるとは限らない。

在宅介護をしていると、要介護者が長生きして、介護をする家族が先に亡くなってしまうという不幸な出来事は多い。

医学が発達して、人が長生きするようになったというのは、学者の自己満足に過ぎず、現実には不幸の種を増やしただけだと思う。

家族の介護は家族が協力して行うものであるが、患者の精神状態や介護の度合いによって、大勢の人々を不幸にする。

現在は、リビング・ウィルも重要視されているが、総ての患者がリビング・ウィルの事を知っているわけじゃ無いし、私だって父の介護をする上で必要な知識を得る為に調べて知りえた事なのである。

高齢者が自分で調べるなんて困難だし、そもそも自分に介護が必要になるなんて、健康な時には考えないものだ。

父の場合は、末期の骨髄腫なので昨年の8月末に余命2年と宣告された。

父の精神状態を考慮して、本人には告知しないという方針を私が決めた。

患者自身も、あと何年生きるかなんて知りたくないだろうし、そう長くは無い事は薄々気づいているだろう。

終末期における患者の家族の苦痛は、精神的、肉体的に過酷である。介護疲れで患者より先に亡くなってしまう家族が多いのは当然だといえる。

医学の発達は、人の自然死を人工的に延長させ、健康な家族の生命を脅かすものでしかない。


現在の医学の発達は、どこかですすむべき方向を間違えてしまっているように思えてならない。

治る見込みがあるのなら、延命治療も必要だが、治る見込みの無い人をただ生きさせるというのは、正しくは無いんだろう。「人は基本的に一日でも長く生きたいと願っている」という前提で終末期医療は行われるわけだが、一日でも長く生きていたいと願うのは、健康な人や、治る見込みのある人限定で、ただただ苦痛に耐え、治る見込みの無い終末期を送るというのは、患者にとっても幸福とは言い難い。



家族は、一日でも長くと願うもの

家族の場合は、それでも一日でも長く生きていて欲しいと願うものではある。私は脊髄小脳変性症の母を、ズルズルと長生きさせてしまったという後悔がある。

頭の中では「治る見込みも無く、ベッドの上でズルズルと長生きさせても、患者本人が辛いだけだ。」という事は判っていた。しかし、「そろそろ楽にしてやってください。」という一言は、なかなか言えないものである。

それに、どんな状態であっても家族が死んでしまうって事は、非常に辛いものなのだ。

自分に決断が委ねられると、まず自分が悲しい目に逢いたくないという感情が勝ってしまうんですよね。

母は、3年前のクリスマスイブに亡くなったが、10年以上の闘病し、うち7年間はベッドの上で点滴だけで生き続けた。

もっと早く楽にしてやるべきだったのか、人工的に行き続けさせて良かったのか。未だに正解はドッチだったのか判らない。

ただ、一つだけ言えることは、私はリビング・ウィルなどの患者の意思は尊重されるという事を学んだので、無駄な延命治療は拒否する。

「自分に対してだけでもいいから尊厳死を認めて頂きたい」と願っている。

現代医学の発展は、患者や患者の家族の不幸の上に成り立っている。

人は自然な形で亡くなるのが、一番自然でベストなんじゃないかと思う。