日本国憲法を本物の国民憲法に

日本国憲法は借り物憲法

私が日本国憲法が借り物憲法だと考えているのは、昨日のエントリで書いたので、今回はもう少し踏み込んで考えてみたいと思います。

日本国憲法借り物論については、私のような者の説明では解かりにくいと思いますが、判らないときは「プリンシプルのない日本 白洲次郎著」を読んで頂ければと思います。
(当事者の証言が大事だと思うので)



日本国憲法は借り物論

現在の日本国憲法は、1946年(昭和21年)11月3日に公布され、1947年(昭和22年)5月3日に施行されました。

そして、現在まで一度も改正されていません。

主な内容が、国民主権基本的人権の尊重・平和主義という内容で、改正する必要が無かったという事も事実だと思います。

しかし、この日本国憲法の草案は、マッカーサー草案と呼ばれるものであり、米国が日本を占領統治するために、最も良いと起草したものが基になっている。

私は個人的に、現在の日本国憲法は世界に冠たる平和憲法だと考えているが、悲しいかなその成り立ちは、米国による日本国の占領統治が目的であった。


しかも、占領下の事なので、1947年に施行されたものの効力は無きに等しい状況だった。

事実上、日本国憲法が効力を発揮し始めたのは、1952年のサンフランシスコ平和条約以降である。



押し付け憲法

GHQから起草された草案を用いている事や、その経緯から「押し付け憲法」と否定的に解釈している人たちもいるが、私はそうは思わない。

確かに押し付けられた憲法ではあるが、その内容は世界に冠たる平和憲法である。

「押し付けられた」という解釈は、不当だし礼を失する解釈だと思う。

まさに「お借りした憲法」と捉えるべきだと思うからです。


「同じ事じゃないか!」と指摘する人もいると思うし、私だって大きな違いは無いと思う。しかし、礼節を重んじる我が国の美徳を考慮して、成り立ちや経緯が不当なものであったとしても、世界に誇れる平和憲法だという事実を尊重し、「お借りした」と表現したいのです。



成り立ちや経緯は不当

しかし、成り立ちや経緯が不当であるという事もまた事実なんですよね。

だから、私は日本国憲法を本物の国民憲法にする為には、日本人の日本人による日本人の為の憲法を制定する必要があると思うのです。

成り立ちや経緯が不当ならば、まずは不当な部分を無くせばいいと思う。


内容が全く同じものになっても構わないので、自国民の手で起草・修正・制定というプロセスを踏む必要がある。

このプロセスを経て、初めて日本国憲法は真の国民憲法になり、また日本人による「世界のお手本になる平和憲法」になると思うのだ。



世界の世論

このプロセスを踏まない限り、他の国の人々は、日本人が本当に平和を愛する国民であるという印象は持たないだろう。

「日本国の憲法平和憲法だけど、あれは占領軍の統治下でGHQ指導の下で制定した憲法だし、日本人が真に平和を望む国民かどうか判らないよな。」というのが、国際的な世論なのではないかと思うのだ。

私が逆の立場でも、きっとそういう解釈になると思う。



改憲派護憲派

改憲派の人たちと、護憲派の人たちが激しい論争をする事があるが、私はいつも冷めた目で見ている。

「お借りした憲法なのに、改憲も護憲もないだろう。」と思いながら、半ば呆れた心境で見ているのだ。

借りたものは返さなきゃイカン。よって借り物憲法はお返しするべきなのだが、もうGHQは無い。

返すべきところが無いので、返す必要は無いのだが、だからといって、いつまでも我が物顔で使い続けて良いというモノでもなかろう。

やはり、自前の憲法が必要なのだ。


そういう事を踏まえて、「改憲か護憲か」を問う前に、自前の憲法を制定すべきだと主張したいのである。

改憲か護憲かと議論するよりも、まずは日本の自前の憲法を制定するべきだろ?と思うのである。



「じゃあ〜今すぐに、真の国民憲法を制定しよう。」という気持ちにはなれないという心境もある。

非常に矛盾した心境なのですが、事実なのだ。

今の日本の政治は衆愚の極みである。衆愚の極みにいる状況で、マトモな憲法など出来るはずが無い。逆に非常に自己中心的な憲法が出来上がってしまっては、本末転倒なので、今すぐに日本国憲法を制定したいとは思えないんですよね。



今の日本の政治が衆愚の極みと表現したので、民主党を支持する人たちは「何を!自民党の政治よりマシだ」と憤慨し、自民党の支持者は「そうだそうだ」というかも知れないが・・・ドッチも的外れである。

私は、自民党民主党も、同じ衆愚の極みであると感じているからね。

こう表現すると「この共産党が!!」と憤慨しだす人が大勢いるだろうと想像すると、可笑しいというか、馬鹿馬鹿しい気分になるんですよね。

確かに政権選択の場合、「民主党自民党か、共産党か、それとも他の少数政党か」って事になるんだけど、それは政権選択の話であって、政治の根本とは違うものだと思うんですよ。

現在の民主党が、衆愚政治に見切りをつけ、本物の政党に脱皮するかも知れないし、自民党が下野をキッカケに衆愚政治から脱却するかも知れない。共産党がそういう国民政党になる可能性だって否定出来ないのである。



日本共産党は改名するべき?

事実、日本共産党共産主義とは無縁の政党に変わっているよね。

プロレタリアート(労働者階級)の代弁者という立場じゃないし、生活保護受給者などの経済的弱者の代弁者としての地位を確立している。

マルクスあたりは草葉の陰で「共産主義とはプロレタリアートの権利を主張するものだ。働かない人を守る主義じゃないぞ。」って泣いているかも知れない。

日本共産党が、経済的弱者の立場を守ろうという政治姿勢は、それはそれで立派だと思うんですよね。そういう政党も必要だし・・・

ただ、共産主義とは明らかに違うんだし、共産党という名前は変えるべきなんじゃないかと思うわけです。

しかし中国共産党も、共産主義とは全くの別物で、ありゃ〜完全なる国家社会主義ですよね。国家社会主義の極みっていうか、戦前の日本より国家社会主義の傾倒している。

共産主義の不完全な部分は、浸透すれば浸透するほどに、一部の権力者を生み出してしまうことで、その事は東欧諸国が証明しているよね。



現在の政党から

日本国憲法を、自前で起草・修正・立案・修正・制定というプロセスを踏む為には、バランス感覚と崇高なる志を持った政党が政権政党になる必要があるが、現在の各政党には、その資質は見当たらない。

しかし、いずれ衆愚の激流を乗り越え、真の国民政党に脱皮する政党が現れるはずである。というか、そう祈らずには居れない。

それが、民主党だろうが、自民党だろうが、日本共産党だろうが、はたまた他の政党だろうが全く構わない。

ポピュリズムの激流を乗り越えた政党が、生き残るだろうし、そこが現時点の目標地点ではないかと思うのだ。

そして、その時がきたら、「日本人の日本人による日本人の為の日本国憲法」を制定して欲しいと思う。