続よしもとばななさんの話

文章論

昨日、よしもとばなな氏の話題を取り上げた。

しかし私は彼女の著書を読んでいないと思う。おそらく読んだ事があるんだろうけど、記憶に残っていないという可能性が高いのですが、記憶に残るものが無かったと言う事は、「読んだ事が無い」と言う事と同じ意味であると考える。

本を読んで、良書だ悪書だと評価するつもりは全くないし、同じ文章を読んでも読み手によって解釈が違う物だから「良書・悪書」という評価は基本的に存在するはずが無いのである。

日教組脳の暗愚な指導者どもには理解出来ない話だろうが、文章とは読み手の思想やスキルによって解釈が変わるものなのだ。よって良書・悪書という評価など、一部の視野の狭い偽善者によってランク付けされるものであって、本来存在するべきではないのである。

例えば、女性の裸体がテーマの本があったとしよう。もちろん画像やイラスト付きのモノも含むのですが、この女性の裸体画像満載の本は悪書だろうか?

恐らく日教組脳の教員や保護者の多くは「なんてはしたない。こんな悪書は廃刊すべきだ。」と考えるであろう。

ところが、美術の教師だったらどう捉えるだろうか。恐らく被写体のアングルや光と影のバランスなどに注目し、その画像から受けた印象を自分の作品に活かそうと考えるだろう。参考になる画像が多ければ、良書という事になる。

医学生や医療を志す若者だったら、直接裸体を見る前の準備体操のような見方をするだろうし、(可能か不可能かは判らないが)裸体を観察して病気や身体の不具合を見つけたりするかもしれない。

おなじ画像や文章でも、ユーザーの思想・スキルなど諸々の事情で、書籍に関する印象は変化するものである。

女性の裸体の画像が「如何わしい」「イヤラシイ」と感じるか、「素晴らしい」「参考になる」と感じるかは、読み手次第ってことなのだ。

私は、書籍全般に対して「良書も悪書もない」と考えている。

また、一冊の本を読んで、どれだけの知識が得られるかと言うと、あまり得るものは多くないように感じる。一冊の本を読んで一つか二つ得るものがあれば上出来だと思っている。

中には、今までの価値観や道徳心を根底から覆すような衝撃作もあるが、そんな本に出会うのは一生のうちで、そう何度もあるものじゃないと考えている。

ちなみに よしもとばなな氏 の著作であるが、印象に残った文章が無かったという事は得るものが無かったと言う事で、「読んでいない」と表現してもなんら問題ないと考えている。

まったく得るものが無い本など、基本的に存在しないような気がするが、エッセイ中心の執筆家という事を考えれば、得るものが無かったとしても問題ないであろう。

もちろん、私以外の人が読めば「得るものが多い著作であった」という感想になる事もあるだろうし、固定ファンが多いと言う事は、彼女の作品に影響を受けた人も多いという事である。

居酒屋の話

昨日から取り上げているテーマではあるが、よしもとばななさんの大人気ない文章には、同世代として非常に情け無いと感じるものの、よしもとばななの文章としては、初めて私のなかに印象を残した文章であったという事だろう。「『人生の旅をゆく』を読んでみようか」と思えた。

恐らく得るものは少ないと思うけど・・・

興味を持った事は間違いないし、良いとか悪いとかじゃなく、考えさせられた文章であった事も間違いないのだ。

説得力に乏しいと思うし、大人気ない対応だと思う。彼女の評価を高める部分など無いように思う文章ではあるが、「自分が彼女の立場ならこうしただろう」「自分が店長の立場ならこうするであろう。」という事を考えた。

こんなシュミレーションを繰り返すことは、これからの人生の為の重要なレッスンになる事だし、唯一その事だけを評価してもいいのかも知れない。

良い機会を得たという事も事実だから、得たものがあったと評価する。ならばその著作は私にとって価値があると思うのだ。