尊厳死や安楽死についての再考、移動できる余力について考えてみた

本日興味深い記事を見つけたので紹介します。

安楽死のためのスイス渡航者、5年で611人に/CNN.co.jp


私個人としては、尊厳死安楽死について割りと肯定的に捉えていますが、私が尊厳死安楽死を法制化して欲しいという背景には、今後私自身が身内の尊厳死安楽死に立ち会う可能性がほぼゼロに近いという事があると思います。


私が尊厳死安楽死の法制化を望む背景

私は母親と父親の終末期に立会いました。病気で苦しむ肉親の最終末期に立ち会うのは非常に辛いことです。辛いことなんですが、結局最後まで尊厳死安楽死を選択する事は出来ませんでした。

肉親の苦しみを間近で見守るより、自分自身が肉親の安楽死を選択する事の方が何倍も辛いことです。

私自身は母親の死後「なぜもっと早く楽にしてやらなかったんだろう?」という後悔の念を持ち続けています。今だって同じ気持ちです。

しかし、日本では尊厳死安楽死が認められておりません。母親の時はリビング・ウィルについても知りませんでしたし、母親は言葉を話せる状態ではなく、本人の意思を確認することが出来なかった。

尊厳死安楽死が認められていなかったという事が、母親を楽に死なせてやれなかった自分の免罪符になっている事も事実です。おかげで自責の念はかなり緩和されていると思います。


安楽死が認められていないという事実は、終末期の肉親を持つ多くの人たちにとって、自分が肉親の死を選択せずに済むという免罪符になり得るものです。

おかげで心の平穏が保たれているのであれば、尊厳死安楽死について議論する時に重要な要素になると思います。


私の場合は両親が他界しているので、尊厳死安楽死を考える場合、自分の終末期を想定したものでしかありません。

両親を安楽死させてやれなかった自分ですから、自分のときは安楽死を認めて欲しいという欲求は非常に自己中心的ではあるのですが、病気で苦しむ自分を想定すると「安楽死は早く法制化して欲しい。」という気持ちになるんですよね。かなり我儘な気がしますが本音はこういうモンです。


私は個人的に自分の終末期だけを考えて、尊厳死安楽死を認める社会を望んでいるに過ぎない。現在進行形で終末期の肉親を見守っている人の事を考えると、声高に「尊厳死安楽死の法制化を急ぐべき!」とは主張しきれない気持ちもある。


安楽死の為の渡航について

今回は、記事で紹介されている安楽死の為の渡航について考えています。

日本人にとって渡航というと、海を越えて遥か遠い外国へ移動するイメージが強いですが、欧州では地続きの外国に移動するだけなので、日本人が他の都道府県に移動するイメージの方がシックリくるのかも知れません。

彼らにとっては数百キロの移動で済むのかも知れませんが、数百キロの移動が可能なほどの余力がある人に安楽死は必要か?という気がします。

私自身が考える尊厳死安楽死は、治る見込みの無い病人で四六時中病苦と向き合っている人たちへの救済措置です。

どんな移動方法を使うのかが記事では確認出来ませんでしたが、数百キロの移動に耐えうるだけの余力のある人が安楽死という選択をする事には疑問を感じます。


もちろん病気の苦しみは本人にしか判らない事なので、軽々しく「あんたのは安楽死じゃなくて、ただの逃避死だよ!」なんて事は言えません。

本人に面と向かっては言う事は出来ませんが、どうしても「数百キロを移動する余力があるのであれば、頑張って生きる事を選択して欲しい。」という気持ちになります。


私が今回感じたのは、どの程度症状が悪化したら安楽死を認めるのか?その線引きは非常に難しいという事です。

単純に本人が希望し家族が了承したならOKという線引きも可能なんですが、それだとなんだか容認しがたい気持ちになります。

全ての人にギリギリまで生きて欲しいと願う気持ちと、治る見込みの無い病気で苦しんでいる人には安楽死を認めてあげたいという相反する気持ちが入り乱れているんですよね。

尊厳死安楽死に関しては今後も充分な議論が必要だと思います。


出来るだけ早く法制化することが望ましいとは思いますが、法制化が遅れれば遅れるだけ苦しむ終末期の患者が増えるという事実と、法制化が遅れているおかげで家族の死を選択せずに済む家族がいるという事実も考慮すると本当に難しい問題です。


またまた我儘な結論なのですが、私が終末期を迎える前に尊厳死安楽死の法制化が間に合えば有難いと思います。

参考までに以前のエントリも紹介します。